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日本の旅
北海道の旅          小樽・余市・積丹

小 樽
おたる
 明治の開拓時代、物資の積み上げ港として整備された北の港町です。大正時代にはニシン漁で潤いました。街には金融機関のビルが建ち並んで「北のウォール街」とも呼ばれるほど賑わいました。
 運河や倉庫、銀行のビルなど当時の建物が今も残り、レトロとロマンの香りを街に与えています。



小樽駅
おたるえき
小樽市稲穂2丁目
 小樽駅舎も昭和9年に建設された歴史のある建物です。構内は吹き抜けのように広いホールになっています。
 天井も凝っていて方角などが描かれています。窓には多数のランプが並んでいて、暖かさを演出しています。



小樽築港駅
おたるちっこうえき
 明治の末から大正のはじめにかけて埋め立てられた築港地区の駅です。マイカル小樽オープンにあわせて移転新築され、7億円かけた近代的な駅舎です。



小樽運河
おたるうんが
北海道小樽市色内
 小樽運河は大正3年(1914)からおよそ9年の歳月をかけて造られた全長1314m、幅40mの運河です。
 運河の脇に建つ石造りの倉庫群は店舗や博物館などに再利用され、夕暮れ時にはガス灯が揺らめく散策路になっています。
 大正末期から昭和にかけて小樽がもっとも華やかだった時代には、この運河がはしけで埋まったそうです。
 かつては北海道開拓の玄関口で、多くの物資が集散した場所でした。現在では、運河南側の650mが御影石を敷き詰めた散策路になっていて大勢の観光客で賑わっています。


色内通り
いろないどおり
北海道小樽市堺町
 「北のウォール街」、小樽のメインストリートが色内(いろない)通りです。
 明治後期から昭和初期に建てられた、古い建物が並んでいます。
 木造の商家から威風堂々の石造建築まで様々ですがレトロが素敵です。


旧日本郵船株式会社小樽支店
きゅうにほんゆうせんかぶしきがいしゃおたるしてん
北海道小樽市色内3ー7ー8
Tel 0134-22-3316
 旧日本郵船株式会社小樽支店の建物は明治37年(1904)に着工され、明治39年(1906)に落成されました。近世ヨーロッパ復興様式の石造り2階建てで、国の重要文化財に指定されています。
 明治39年(1906)11月にこの建物の2階会議室で日露戦争後、樺太の日露国境画定会議が行われました。



旧通信電設浜ビル
北海道小樽市色内1−2−18
 昭和8年に建てられた鉄筋コンクリート4階建ての落ち着いた感じの建物です。4階部分の窓枠がアーチを描いているのが特徴です。
 小樽での最初の貸しビルだったそうです。石原裕次郎の父親が勤めていた山下汽船の小樽支店がここに入っていたそうです。



旧高橋倉庫
北海道小樽市色内1−2−17
 小豆将軍という異名を持つ高橋直治が建て建物です。故郷の新潟からの海産物や米で富を築き小豆の取扱いでは一世を風靡したそうです。
 大正12年(1923)にはロンドン相場を動かしたと評判になり、後に小樽選出の初の衆議院議員となったそうです。はじめは事務所として建てられましたが後には倉庫になったそうです。



旧荒田商会
北海道小樽市色内1−2−17
 運河沿いの臨港線に面して建てられた木造モルタル2階建ての建物です。
 海産物の商いから海運業までに大成長した、荒田太吉商店の本店事務所跡です。



小樽市博物館
おたるしはくぶつかん
北海道小樽市色内2−1−20
Tel 0134-33-2439
 明治27年(1894)に建設された旧小樽倉庫を再利用しています。左右対称の建物の屋根には福井産の瓦の上に、120kgもの銀瓦製のシャチホコが鎮座しています。
 館内では小樽の発展や人々の暮らし、ニシン漁や貿易で栄えた時代を解説しています。現在の商社にあたる海陸物産商や、高級舶来雑貨店などの店先も再現されています。



大家倉庫
おおいえそうこ
北海道小樽市色内2−3−11
 北前船の海産物問屋大家商店の大家七平が、明治24年(1891)に建てた自家用の倉庫です。屋根の壁には屋号の傘に七がつけられています。
 臨港線に面していて、ひときわ目立つ大きな倉庫です。正面の入口には二重アーチがあり、石造りで越屋根という構造になっています。数年前まではブリキ玩具の博物館になっていました。



北一硝子
きたいちがらす
北海道小樽市堺町7?26
Tel 0134-33-199
 明治34年(1901)石油ランプを製造した浅原硝子が前身です。昭和46年(1971)北一硝子としてガラス製品の店を開店しました。倉庫の再利用をして小樽とガラスを結びつけました。



ヴェネツィア美術館
北海道小樽市堺町5−27
TEL 0134-33-1717
 中世ヨーロッパのガラス工芸の象徴であるヴェネツィアンガラス専門の美術館です。故ダイアナ妃が実際に乗ったゴンドラや色鮮やかなヴェネツィアン・ガラスを展示しています。



日本銀行旧小樽支店
にほんぎんこうきゅうおたるしてん
北海道小樽市色内1−11−16
Tel 0134-21-1111
 明治45年(1912)に建てられた旧日本銀行小樽支店の歴史的建造物です。平成15年(2003)より日銀初の「金融資料館」としてオープンし、日銀の広報活動の拠点となっています。
 赤レンガの東京駅や日銀本店の設計者として知られる辰野金吾の設計です。レンガ造りのモルタル仕上げで、重厚な迫力のあるルネッサンス風の建物です。
 壁面にはアイヌの守り神シマフクロウをモチーフにした数々の彫刻があり、屋根の上には塔屋があり、銅葺きのドームの曲線と重厚な外観が調和してひときわ荘重な姿を誇っています。



旧北海道銀行本店
きゅうほっかいどうぎんこうほんてん
北海道小樽市色内1−8−6
Tel 0134-24-2800
 明治45年(1912)に建てられた旧北海道銀行本店跡です。現在は北海道中央バスの所有になっています。
 設計は銀行建築の設計で有名な長野宇平治です。石造りで玄関や窓まわりの石組デザイン、コーナー部分、窓の間隔の変化などに特徴があります。



水天宮
すいてんぐう
北海道小樽市相生町3−1
 水天宮は安政6年(1859)に建立されました。現在の社殿は大正8年(1919)に伊久治三郎によって建てられました。急な石段を上ると境内からは、小樽港や堺町などの昔ながらの家並みを見渡すことができます。
 木造平屋建ての本殿は流れ造り、拝殿は入母屋造りで建設当初の姿を保っています。
 祭神は、飲料水の神である弥津波能売神(ミズハノメノカミ)と、食料生産の神である保食神(ウケモチノカミ)です。
 境内には、明治26年(1893)旧海軍水路部が設置した経度天測標の石柱があり、ここが日露国境確定のための正確な経度を測定するための基準点となりました。
小樽港を一望できる小高い丘の上にあるのでの「小樽市の重要眺望地点」に指定されています。桜の花見の名所としても名高いところです。
 境内の入口の右手には、石川啄木の歌碑も建てられています。



旧寿原邸
北海道小樽市東雲町8−1
Tel 0134-22-0856
 小樽の雑穀商、高橋直治氏によって大正元年(1912)に建てられた邸宅です。急な傾斜地に、接客棟を2つ連ねて建てられています。
 明治末期に発生した小樽大火の影響で住居と店舗を分け、展望の良い場所に住居を構えることが流行したそうです。後に高橋家から寿原家に所有が変わり、寿原家から小樽市に寄贈されたものです。



小樽聖公会
おたるせいこうかい
小樽市東雲町10−5
Tel 0134-23-3368
 小樽市指定歴史的建造物で小さくて可愛い建物の小樽聖公会です。明治28年(1895)に手宮で伝道を開始しましたが公堂が焼失したため明治40年(1907)ここに建てられました。
 切妻屋根で下見張り、おおらかな尖塔アーチの窓が印象的です。屋根破風の頂点に日本建築の絵様線彫のある飾りがあり地元大工の設計と思われます。



石原裕次郎記念館
いしはらゆうじろうきねんかん
小樽市築港5-10
北海道小樽市築港5-10
Tel 0134-34-1188
 昭和62年(1987)惜しまれながら亡くなった俳優であり歌手であった永遠のスター石原裕次郎氏の記念館です。1階は映画のセットなどを再現して俳優としての彼の姿を紹介しています。2階は彼の愛車やマリングッズなどを展示しています。



余 市
よいち
余市郡余市町
 余市は天明時代(1781-1789)に松前藩の運上所が置かれてから発展しました。米を産出できなかったため交易権をを与え一定の運上金をとって商人に請け負わせ、それらの場所が建てられたのです。
 明治4年(1872)には会津からの団体移民が来て農業を営むようになりました。明治から昭和にかけてはニシンの千石場所となって賑わいました。



ニッカウヰスキー北海道工場余市蒸溜所
にっかういすきーよいちじょうりゅうしょ
北海道余市郡余市町黒川町7−6
Tel 0135-23-3131
 余市駅からすぐ近くの所に世界に誇るニッカウヰスキーの醸造所があります。ヨーロッパの城郭を思わせる石造りの建物が並びます。
 澄んだ冷気、清冽な水などの気象条件は、ウイスキー造りに好適で、留学帰りの創業者・竹鶴政孝が、この地に惚れ込んで工場建設に踏み切ったそうです。
 工場内の敷地は広く、閑静です。ウイスキーの芳醇な香りが辺りに漂っています。樽に入ったウイスキーは少しづつ蒸発しながら琥珀色へとなっていきます。10年で半分になってしまうそうです。この蒸発したウイスキーは「天使の分け前」と呼ばれています。
 製造工程の見学が可能です。ガイド付で30分ごとに出発しています。所要は試飲も含めて1時間ほどです。敷地内には竹鶴政孝の資料館もあります。



旧下ヨイチ運上家
きゅうしもよいちうんじょうや
北海道余市郡余市町入舟町10
Tel 0135-23-5915
 江戸時代、松前藩によって設置された、和人とアイヌの人々との交易場所に建てられた建物のことを運上家といいます。旧下ヨイチ運上家は道内で唯一残った建築を解体、復元したものです。
 天明6年(1786)余市には上ヨイチ場所と下ヨイチ場所の二カ所運上家があったようです。寛政4年(1792)には東蝦夷45場所、西蝦夷43場所と増えています。
 旧下ヨイチ運上家は、場所請負人初代竹屋林長左衛門が嘉永6年(1853)に改築した建物です。現在ある建物は当時の古図面をもとに復元されたものです。国の重要文化財に指定されています。
 建物は切妻造平入りの正面約20間(40m) 、奥行き約9間(16m) 、建築面積約540uです。弁天社、板倉、雑板倉、煎海鼠板倉などの倉もあります。明治2年(1869)、開拓使が発足し場所請負制度は廃止になりました。



旧余市福原漁場
きゅうよいちふくはらぎょじょう
北海道余市郡余市町浜中町150
Tel 0135-22-5600
 明治36年(1903)まで福原家が経営していた漁場で、親方の家族や漁夫が寝起きした主屋、文書庫、納屋、干場、米味噌倉などが修理復元されています。
 余市は江戸時代からニシンの千石場所としてその名を知られていました。明治以降、余市はニシン漁と共に発展を続け、海岸沿いには漁場の建物が立ち並んだのです。
 漁場経営者は「大宅=おおやけ」と呼ばれ、漁期には出稼ぎの漁夫などの多くの人を雇い入れたのです。
 ここは明治期の漁業活動を知る貴重な漁場跡です。国の史跡にも指定されています。重要書類を保管していた文書庫なども保存されていて、当時の漁家の財力や権力の一端をうかがい知ることができます。



セタカムイ岩
 セタカムイとはアイヌ語で犬の神様という意味だそうです。海の町古平(ふるびら)には漁に出たまま帰らぬ主人を待ち続けた忠犬シロの化身という伝説が残っているそうです。



ローソク岩
 余市町豊浜のローソク岩です。若い漁師が、海の女神から怪物退治のためにもらった兜と剣をなくし、これらが岩になったという伝説が残っています。



積丹岬
しゃこたんみさき
北海道積丹郡積丹町入舸町
 積丹(しゃこたん)半島の最北端に突き出している岬です。先端からは、神威岬(かむいみさき)へ続くダイナミックな海岸線と、積丹岳などが眺望できます。
 美国寄りの幌武意(ほろむい)から積丹岬までは積丹岬自然歩道が通じています。全コースを歩くと4.7kmで1時間30分ほどかかるそうです。 
 しゃこたんはアイヌ語のシャックコタンからきたものだそうです。意味は夏の場所ということのようです。積丹岬はアイヌ語では「シリパ」と呼ばれました。「岬」の意味ですが「海中につき出ている山の頭」ということのようです。
 駐車場からトンネルを通って岬に降りれる道と、岬の上の遊歩道と、2個所から島武意海岸の日本海の荒波にもまれた、迫力ある奇岩を眺めることが出来ます。
 神威岬(かむいみさき)から積丹岬の全景を見た景色です。海の色はコバルトブルーでした。



島武意海岸
しまむいかいがん
北海道積丹郡積丹町入舸
 積丹岬から眼下に見える海岸です。シマムイとは、石(岩)の湾というアイヌ語が語源のようです。左写真の右側の岩が女郎子岩です。
 島武意海岸は「日本の渚百選」にも選ばれている景勝地です。海と岩盤のコントラストが見事に調和しています。
 海岸に沿って遊歩道があります。途中に展望台なども整備されています。遊歩道の途中にある女郎子岩には義経とシララ姫との悲しい話が伝承されています。
  駐車場から全長30mほどの歩行者用トンネルを抜けると岸壁の中腹に出ることができます。遊歩道の先端まで登らなくても、巨大な岩々と海底まで透き通った海が作り出す景色を堪能できます。
 奇岩や断崖がつくる積丹半島の景観の中でも、ここからの眺めが最も美しいといわれています。



神威岬
かむいみさき
北海道積丹郡積丹町草内
 積丹岬と相対して突き出した岬で日本海最大の難所として知られた岬です。岬は高さ80mぐらいの海蝕崖が続き、沖には海蝕による岩礁が奇観を呈しています。 
 安政3年(1856)まで女人禁制の地で女性が通れば海が荒れて魚が獲れないといわれていました。現在はもちろんそのようなことはありませんが、岬の入口には「女人禁制」の看板が立っています。
 江差追分にも「未練あるのかお神威様よ、なぜに女の足とめる」とうたわれています。このことは和人の定住を嫌った松前藩の政策ではないかと今では思われています。
 北海道にはいろいろな場所で義経伝説があります。神威岬にも義経伝説が残されています。
 日高の平取(びらとり)の酋長のもとに滞在していた義経は、酋長の娘チャレンカと恋仲になりました。
 ある日、義経はチャレンカに別れを告げずに出発してしまいました。チャレンカは神威岬で追いつきましたが、すでに義経一行は舟にのり岸をはなれた後でした。
 悲しみのあまり発狂したチャレンカは「和人(シャモ)の舟が女をのせてここを通れば、転覆させる。」とのろいの言葉を残して海に身を投じ岩になったそうです。それが神威岬の突端にある神威岩であるというのです。
 また別のストーリーでは次のようです。
 奥州で源頼朝の命を受けた藤原氏の襲撃を受け、命からがら逃げ延びた源義経は東北から船に乗り北海道アイヌの地に逃れ、この世別にあった村に流れ着きました。
 逗留している間に、ここの酋長の娘「チャレンカ姫」と恋仲になってしまいました。しばらくの間、この地で平和な日々を過ごした義経でしたが、夢を求め、旅立ちの決意をします。チャレンカ姫にこのことを伝えることが出来ず、黙って出発することになりました。
 ある朝、狩りに出かけると言い残して義経は出かけました。身の回りの品もなくなっていることに気づいたチャレンカ姫は後を追いかけました。しかし義経は余別の港から船をこぎだした後でした。
 神威岬までやってきましたが義経が乗った船は遙か水平線の彼方でした。叫べども届かぬ声に悲しみのあまり海に身を投げたチャレンカ姫は海の藻屑となってしまったそうです。
 行き違いができないほどの狭い遊歩道は峯の上にできています。両側ともかなり険しい崖になっています。先端の岩礁は神の形をしていてコバルトブルーの海が広がっています。



神威岬灯台
かむいみさきとうだい
北海道積丹郡積丹町神崎町
 明治21年(1888)海の難所だった神威岬に神威岬灯台が開設されました。
 大正元年(1912)この灯台で悲しい事故が起きました。台長夫人と幼児を連れた職員の妻が、余別地区まで買い出しに出かけ、波にのまれて亡くなってしまったのです。
当時、マチへ行くには海岸伝いの小径か、降雪期に閉ざされる山道しかなかったのです。
 町は96年、国道229号とのアクセス路や灯台までの遊歩道などで構成する神威岬自然公園をオープンさせました。かつての魔所には今や、半年間で40万人余りの人がが訪れています。


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